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1 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:54:08.36 ID:4TBLGcT+0


汗ばんだ手を横着にジャージで拭って、今度はその手でシューズの裏を片足ずつなぞる。

なぞったあとで、少しだけ強めに足を床に打ち付けると、きゅっという音が響く。

左足、右足。それに伴って響く、二回のきゅっという音。

あたしはこの一連の動作と音が、お気に入りになっていた。



2 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:55:13.01 ID:4TBLGcT+0




高校一年のときの球技大会のことだった。

「奈緒さぁ、運動神経いいでしょ?」なんて言われて、あたしはバスケットボールのメンバーに選ばれた。

別に出る種目はなんでもよかったから、二つ返事で了承したことを覚えている。

ただ、一つだけ誤算があった。

なんて言ったらいいのか分からないけれど、みんなすごく本気だったのだ。

あたしを除く四人は、みんな経験者か現役のバスケットボール部員かのどっちかで、正直なところ場違いだよなぁ、なんて思っていた。

でも、チームのみんなは体育の授業くらいでしか経験のなかったあたしに、懇切丁寧に教えてくれた。

練習でのミスなんかも叱責されることなく「どんまいどんまい!」と励ましてもらえたし、ちょっとしたことでも「ナイスパス!」だとか「ナイスシュート!」だとか、褒めてもらえて、練習するうちに楽しくなっていた。


3 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:56:56.06 ID:4TBLGcT+0




そんなある日、いつものように体育館で練習していたときのこと。

相手のシュートが外れ、リングの上でボールがぐるぐると回る。

落下点に目星をつけて、大きく跳んで手を伸ばす。

見事ボールをキャッチして、着地。

背後で誰かが言った「ナイスリバン!」という声に少し、にやっとしてしまう。

相手にボールを奪われないように片足を軸に体を動かし、隙を探す。

ここだ、と思った瞬間にフェイクを入れてドリブルを開始したところまでは良かった。

良かったんだけれども、踏み出した足がずるっと滑り、あたしは大きく尻もちをついた。

てーん、てーん、という音を立てて、せっかくキャッチしたボールはコートの外へと出て行く。

あーあ、やってしまった。

「大丈夫?」と駆け寄ってくれたみんなに「ごめん……」と謝った。

そうして、ここらで一旦休憩にしようか、ということになって体育館の舞台に腰かけたところ、褒め殺しにあった。

「奈緒、めっちゃ上手になったよね。いつの間にかピボットも使えるようになってるし」

「ほんとほんと、こっそり練習してたりする?」

「ゴール下、さっき私負けたしね」

「それは現役としてどうなの」

やいのやいのと褒めまくられて、たじたじだ。

こうまで褒められると、どう返していいかわからず、あははと笑うしかなかった。


4 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:57:36.01 ID:4TBLGcT+0



「さっき、滑ったよね」

やっぱり突っ込まれるかー、と笑いものにされることを覚悟して「あー、うん」と返す。

「私らはバッシュだけど、奈緒は学校の体育館シューズだし、仕方ないんだけどさ」

そう言って、自分のバスケシューズを指差して、裏を見せてくれた。

いろんなところに滑り止めがついていて、なるほどなぁ、と思う。

技術的な面以外にもこういう道具があの急な体重移動を可能にしているらしい。

「で、なんだけど」と前置いて彼女は舞台からぴょんと飛び降りる。

軽やかな着地と共に、手のひらをバスケットパンツでごしごしと拭って、その手でシューズの裏をなぞった。

左足、右足と順番に床に打ち付ける。

体育館に、きゅっという小気味の良い音が二回響いた。

「こうするとね、多少だけど滑らなくなるよ」

にっ、と笑って彼女は言う。

「やってみて」

その言葉に従って、あたしは舞台からぴょんと飛び降りる。

体操服のズボンで手のひらを拭って、シューズの裏をなぞる。

そのまま床に打ち付けると、控えめにきゅっという音が鳴った。

同じようにもう片方の足も繰り返す。

「学校の体育館シューズじゃあんま良い音鳴んないね。でも、滑るなーと思ったらそれやるといいよ」


5 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:58:22.48 ID:4TBLGcT+0




なんてわけで、高校一年のときの球技大会の思い出は、大会本番よりも、そんなある日の練習の思い出が一番強く残っている。

もちろん大会本番も、全員を経験者もしくは現役のバスケ部員で固めた強豪クラス相手に一進一退の攻防を繰り広げ、試合終了間際に苦し紛れで放ったボールがゴールへと吸い込まれ、ブザービーター、逆転勝利。

そして大会優勝、などといったふうに、それはもう多くのドラマがあったのだけれど、今回の話には関係がない。

では、今回の話は何かというと、靴の話だ。

あたしのダンスシューズの話。


6 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:59:22.37 ID:4TBLGcT+0


■ ステップバイステップ



普通だったあたしの高校生活は、ある人との出会いによって一変した。

ひとことで言えば、アイドルになった。

スカウトされてから数日はただただ忙しかったという記憶だけが残っている。

必要な書類を提出したり、事務所お抱えのレッスンスタジオなんかの説明を受けたり、覚えきれている自信がない。

そして、アイドルになったと言っても、歌もダンスもまったくの素人のあたしがいきなりデビューなんかできるわけもなく、初めはレッスン漬けの日々になるということを担当のプロデューサーから伝えられた。

ちょっとだけがっかりしたけど、それもそうかとすぐに納得した。

まぁ、やるだけやってみよう。

最初はそんないい加減な気持ちだった。


7 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 00:59:59.16 ID:4TBLGcT+0




担当のプロデューサーにレッスンスタジオまで送ってもらって、その案内を受ける。

更衣室や給水所に自動販売機の場所、レッスンルームのIDと対応してる部屋の探し方。

それから、自主練で使いたいときの部屋の予約方法なんかも教えてもらった。

一通りの説明が済んで、プロデューサーは「ちょっと待っていてくださいね」と言ってどこかへ電話をかける。

随分と低姿勢な電話を経て、何かの了承を得たらしいプロデューサーは「少し覗いていきましょうか」と、廊下の端のレッスンルームを指で示した。


8 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:02:10.52 ID:4TBLGcT+0




廊下を進むほどに、シューズと床の摩擦によって生じる音が大きく聞こえる。

丁度一年前、体育館でよく耳にしていたあの音。きゅっという音だ。

その音が大きくなるにつれて、何故だか身が引き締まるような気がする。

やがてルームの前に到着して、音が止むのを見計らってプロデューサーと一緒におずおずと入る。

瞬間、怒号を聞いた。

「もう終わりか!」

鬼のような形相でそんなようなことを叫ぶトレーナーと思われる人と、汗だくで座り込む女の子。

ああ、ああ、大変なところに来てしまった。

逃げ出したくなる気持ちを必死で抑えて、会釈をした。

二人はあたしとプロデューサーなんか気にも留めないで、レッスンを再開する。

曲が始まり、それに合わせて女の子が動く、その一挙手一投足にトレーナーの人が指示を飛ばす。

「指先に意識がいってない!」

あたしが言われてるわけじゃないのに、直視できなかった。

そんなレッスン風景をしばらく眺めたあと、プロデューサーが「そろそろ行きましょうか」と言うので、それに従ってスタジオを出た。


9 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:02:50.20 ID:4TBLGcT+0




「びっくり、しましたよね」

帰る途中、プロデューサーが言った。

「それは、その……まぁ」

スタジオを出てしばらく経つのに、未だにあたしはあの鬼気迫るレッスン風景に気圧されていた。

「……ああいう子が、たくさんいます」

続けて「あれくらい本気でやって、日の目を見ない子が、たくさんいます」と言った。

頭では理解していた。

けれど、目の当たりにして、認識の甘さを思い知った。

そうか、そうか。

あたしはそういう世界に来たんだなぁ。

痛いくらいに拳を握りしめて、運転するプロデューサーの横顔を見る。

この人は、何を思ってあたしにあの光景を見せたのだろうか。

あれで絶望するならそれまで、と早めにふるいにかけたのだろうか。

いや、今はどっちでもいいか。

言うことは一つだ。

「……頑張るよ。とりあえず、あたしがまず人並みに歌って踊れるようにならないと、アンタも仕事できねーもんな」

あたしのそんな言葉を聞いて、プロデューサーはちょっとだけ口角を上げた気がした。

「神谷さんをスカウトして良かった」

「いや、まだなんもしてねーから」

「そうですね。神谷さんが言ったとおり当面の間、神谷さんはスキルアップのためのレッスン漬けです」

「あー、うん。覚悟してる」

「そこからは、私の仕事。ただのティッシュマンじゃないってこと、証明しますよ」

「期待しとく!」


10 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:03:46.40 ID:4TBLGcT+0



駅までで大丈夫だと言ったんだけれど、結局押しに負ける形で家まで送ってもらって、あたしは帰宅を果たす。

体は動かしていないはずなのに、リビングの方へ「ただいま」を投げた途端に、どっと疲れが押し寄せた。

ちょっとだけ、横になろう。

そう思って自室へ向かい、そのドアノブに手をかけたところで、母があたしを呼んだ。

タイミング悪いなぁ、なんて思いながら「はーい」と返事をした。

リビングに到着して、あたしが用事を尋ねるより先に母が「じゃーん」と後ろ手に隠していた紙袋を掲げた。

「え、え、何?」

「開けてみて」

受け取った紙袋は想像より重くて、ずっしりとした感覚が腕にのしかかってきた。

言われるがままに、紙袋を開いて中を覗く。

そこそこの大きさの長方形の箱が入っていた。

「もしかして、靴?」

「もう。開けてみて、ってば」

中身は教えてくれないみたいで、母は相変わらずにこにことしている。

紙袋から箱を出して開いてみる。

ぴかぴかした靴が入っていた。

ハイカットのスニーカー、だろうか。

片方を取り出して手に取りじっくりと眺めてみる。

通常のスニーカーよりもしっかりした作りで、最初に抱いた印象は、なんかゴツい、というものだった。

くるくると回して眺めていき、最後に靴底を見たとき、言い様のない既視感に襲われた。

至る所に滑り止めがついていて、ゴツい靴。

そこまで考えて、一年前の球技大会前、ある日の練習の記憶が蘇った。

ああ、そうか。これ、バスケットボールシューズに似てるんだ。

そして、今のあたしに必要な靴と言えば。

「……ダンスシューズ?」

あたしが聞くと、母はより一層にこーっとして「当たり!」と言った。


11 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:04:14.59 ID:4TBLGcT+0




「なんつーか、その、ありがと。高かっただろ。これ」

「どういたしまして。値段なんか気にしない気にしない。ほら、先行投資よ先行投資」

「うん。ありがと。この靴に見合う活躍ができるように、頑張るから」

「楽しみにしてるわ。……じゃあ、お母さんご飯作っちゃうわね」

言って、母はソファから立ち上がり、いそいそとキッチンへと向かう。

母がこちらを見ていないのを見計らって、ダンスシューズの入った箱をぎゅっと抱き締めた。

頑張ろう。


12 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:05:44.39 ID:4TBLGcT+0




自室に戻って、箱からシューズを取り出して靴ひもを通していく。

右、左、右、左と紐が交差していく様は、なんだか靴に命を吹き込んでいるみたいで、どきどきした。

靴ひもを通し終え、おそるおそる履いてみる。

足全体をすっぽりと包みこんでくれて、ぴったりと足に馴染む。

見た目はこんなにもゴツいのに履き心地は軽やかで、いつもより速く走れそうな気さえする。

ぎゅっと靴ひもを結んで立ち上がって、ぴょんと跳ねてみたら、着地の衝撃が思った以上に少なくてびっくりした。

ふと、いつか教えてもらった滑らなくなるおまじないを思い出す。

左手をごしごしとTシャツで拭って、試しに靴底を撫でた。

滑り止めのごつごつした感触が手のひら全体に伝わって、少しくすぐったい。

控えめにフローリングに打ち付けると、あの音が響いた。

きゅっ。

そのすぐ後で、キッチンから「こら!」という声が飛んできたのは言うまでもない。


13 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:06:17.48 ID:4TBLGcT+0




あたしがダンスシューズを手に入れて何日かしたあと、いよいよレッスン漬けの日々が幕を開けた。

毎週、プロデューサーから送られてくるスケジュールを手帳に書き留める。

まだレッスン以外の予定を書き込んだことはないけれど、いつか目が回るくらいの予定でこの手帳が埋まる日が来るといいな、と思った。

レッスンは基本的に週に三日で、曜日はまちまち。なんだか習い事とか、部活とか、そんな感じだなぁ、なんてことを思った。

内容は大きく分けてボーカル、ダンス、ビジュアルの三つ。

初めはビジュアルってなんのことだろう、とよく分からなかったが、どうやら主に演技のことを指すらしかった。

好き嫌いしている立場にないことくらい重々承知の上だけど、あたしはダンスレッスンが一番好きだった。

楽だから、じゃない。

というか、楽かどうかで言えば、ダンスレッスンは一番きつい。

でも、一番好きだった。

理由としては、目に見えて上達が分かるから、というのが大きい。

さっきまで踏めなかったステップができるようになったときだったり、振付が頭に入ってきて自然に体が動いたときだったり、そういう瞬間に、成長を実感できる。

あとは、そう。

あの音がお気に入り、ってのもちょっとだけある。

シューズを手でなぞって床に打ち付けるアレ。

体育館シューズでは控えめな音しか鳴らなかったあの音だ。

あたしにとって、アレは気合を入れるおまじないになっていた。


14 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:06:43.83 ID:4TBLGcT+0




終鈴と共に学校を飛び出して、レッスンスタジオへと向かう。

まだ、アイドルになったことは友達には内緒にしている。

だから最初のうちは「バイトでも始めたの?」なんて聞かれたっけ。

それに対して、あたしがうやむやな返事をするもんだから、みんなのっぴきならない事情があると思っているらしかったけれど、今は説明するわけにもいかない。

説明するときは、あたしが本当の意味でアイドルになったとき、って決めている。


15 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:07:11.71 ID:4TBLGcT+0




レッスンスタジオに着いて、受付で更衣室ロッカーの鍵を受け取る。

その際に、その日の予約状況を確認したら幸運なことに空きがあったので、レッスン終わりにそのまま自主練できるように、ルームを予約してもらった。

「神谷さん、頑張るねぇ」

受付のおばちゃんが、にこにこした顔であたしに言う。

そりゃあ、一秒でも早くデビューしたいから、という喉元まで出かかった言葉を飲みこんで、代わりにお礼を言った。

焦っちゃダメだ、なんてわかってはいるけど、わかっていてもどうしようもないこともある。

熱いくらいのスポットライトを浴びて輝くドレスを着てステージで歌い踊る自分を夢想すると、心臓がちょっとだけ早くなった。


16 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:07:46.18 ID:4TBLGcT+0




着替えを済ませて、タオルとスポーツドリンク、それからアイシング用のスプレーを手に更衣室を出た。

割り振られたレッスンルームに入って、電気と空調をつける。

荷物を隅に置いて、靴ひもをぎゅっと結んだ。

備え付けられた壁掛け時計を見やり、トレーナーさんが来るまでの時間を確認する。

よし、念入りに柔軟をやる時間が取れそうだ。


17 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:08:15.14 ID:4TBLGcT+0




全身の筋肉を一通り伸ばして、ストレッチを終えてもまだ時間があったので、今度は軽くアップを始めた。

ちょっとしたトレーニングだとか、習った基本的なステップの復習だとか、やれることはたくさんある。

そうやって時間を使っているうちに、ルームにトレーナーさんがやってきた。

「感心だな」

アップで額に浮かんだ汗を腕で拭って、トレーナーさんに「よろしくお願いします!」と挨拶をした。

「今日から、メニューを変えるぞ」

「え」

「基礎はもう十分叩き込んだ。だから次に進む、ってことだ」

言って、トレーナーさんはクリアファイルをあたしに手渡す。

受け取って中身を確認するより先に、「神谷の曲だ」とトレーナーさんが言った。


18 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:08:43.28 ID:4TBLGcT+0




「先週、神谷のプロデューサーさんから預かった」

そんな前置きをして、トレーナーさんが事の経緯を語ってくれた。

あたしのプロデューサーは、曲の完成と同時にトレーナーさんに連絡を取ったらしい。

そこでトレーナーさんはこの曲を渡されて、「知らせる時期については、お任せします」と言われたんだとか。

「正直なところ、これを渡すのはもう一か月は先のことだろうと思っていた」

「じゃあ、どうして……」

「何だ。鈍いな」

トレーナーさんが頬をかきながら「もう渡しても問題ないと判断した、と言った方がよかったか」と続けた。


19 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:09:16.68 ID:4TBLGcT+0




その後で、もう仮歌も入っているからボーカルレッスンの方もメインはこの曲になるということを聞かされた。

生まれて初めての、自分の、自分だけの曲。

それが手に入るんだと思うと、言い様のない嬉しさが込み上げてくる。

まずはちゃんと歌えるように、踊れるようにならないとだから、先は長いんだけど。

そもそも、ダンスシューズで踊れないものが衣装の靴で踊れるわけがない。

見栄え重視のおよそダンスには適していないような靴で、ダンスシューズと同じ動きを求められるのだから。

気合、入れないと。

シューズの裏を手のひらでなぞって、床に打ち付けた。


20 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:09:43.30 ID:4TBLGcT+0




トレーナーさんの「今日はここまで。次回まで、復習を怠るなよ」という言葉で、レッスンは終了となった。

「ありがとうございました」と挨拶をして、隅に置いてあった自分の荷物のもとへ這う。

んー、と手を伸ばしてタオルを掴み、ごしごしと汗を拭った。

今日もしんどかった。

全身を襲うとてつもない疲労感で、しばらく立ち上がれそうにない。

タオルを無造作に置いて、今度はスポーツドリンクに手を伸ばす。

キャップを開けて、残り半分ほどのそれを一気にごくごくと飲み干した。

さぁ、後半戦だ。


21 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:10:10.11 ID:4TBLGcT+0




後半戦の前に、自動販売機でスポーツドリンクを買うべく、重い腰を上げる。

ルームのドアノブに手をかけようとしたところで、急にドアが開いた。

「あ、神谷さん。お疲れ様」

「ん、ああ。プロデューサーか」

プロデューサーは、時々こうしてあたしのレッスン終わりに顔を出すことがあった。

理由はよくわからないけど「毎度、調子はどうですか」なんて言って、あたしを茶化しに来る。

それをちょっとだけ楽しみにしてる、あたしがいた。

「帰るとこでした?」

「いや、スポドリ、なくなっちまったから」

「ああ、丁度良かった」

プロデューサーは鞄からコンビニの袋を取り出して、あたしに差し出す。

中にはサプリメントとドリンクが入っていた。

「アミノ酸、摂らないと筋肉痛になりますから。それと、ドリンク」

「ん。……その、いつもありがと」

「今はこの程度の支援しかできないですけどね」

照れ臭そうに笑って、プロデューサーはルームの隅に座り込んだ。

「今日、トレーナーさんから渡されたんでしたっけ、曲」

わざとらしい、今思い出したような口ぶりだ。

そして、あたしの返事を待たずに「見せてもらってもいいですか」と真剣な顔で言った。


22 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:11:16.90 ID:4TBLGcT+0




今日のレッスンで、一通りの振りは頭に叩き込まれたし、曲に合わせて体が動くレベルまで持っていくことはできた。

でも、完璧ではない。

そんな状態のダンスを見せていいのだろうかと思ったけれど、「無理」なんて言える空気ではない。

やるしかない。

言い聞かせるように心の中で呟く。

ビジュアルレッスンの成果である下手くそな作り笑いを浮かべて「おう」と返事をした。



23 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:11:42.69 ID:4TBLGcT+0




いつものおまじないをしてから、CDプレイヤーの再生ボタンを押して、ルームの中央に立った。

軽やかな前奏に合わせてステップを踏む。

右、左、大きく一回クラップ。

右、左、今度は二回クラップ。

必死に記憶を手繰りながら、同時に体を動かす。

かつてないほどの猛スピードで脳みそを回転させ、オーバーヒート寸前だ。

踊りながら、トレーナーさんの指示を思い出す。

指先に常に意識を向けること。

表情を作ること。

ちゃんとできている自信はないけれど、やらない理由にはならない。


24 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:12:12.21 ID:4TBLGcT+0




ラスサビのあとの後奏も踊り切り、姿勢を保ったまま、制止する。

ここで、肩で息をするわけにはいかない。

一秒、二秒、三秒、時間にしてみたら一瞬だけど、体感だとすごく長く感じられる。

そうして、完全に音楽が止まって少しの間を置いてポーズを崩した。

「……どう、だった?」

あたしが尋ねると、プロデューサーは「すごい。……すごいですね」と言う。

「いや、もうちょっと具体的な感想くれよ」と突っ込むと「期待以上でびっくりしました」と真っ直ぐに言われ、たじろいでしまう。

「ダンスはさ、センスあるって、筋が良いって、トレーナーさんにも言われてるんだ」

「聞いてます」

「まぁ、今はこんな感じだけど、早くデビューできるように、もっともっと頑張るからさ」

「ええ、はい。信じてます。信じてるから、曲の方も用意しましたし?」

プロデューサーはこんこんとCDのケースをつついて、おちゃらけてみせる。

一言二言、軽口を叩き合って雰囲気が和んだのを見計らって、曲を用意した理由を聞いてみることにした。

「ここの事務の方から、自主練にすごく取り組んでくれていることを聞いたり、トレーナーさんにレッスン状況を教えていただいたり、……あとは実際に見たりする中で、これはこっちも本気で応えないと、って思いまして」

「うん」

「いつまでもティッシュマンだと思われてるのも癪ですし」

「根に持つなぁ」

「あはは、冗談です。冗談。練習のお邪魔してすみませんでした」

そう言って「それじゃ」と手を挙げて、プロデューサーは行ってしまった。


25 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:12:38.65 ID:4TBLGcT+0




一時間くらい自主練を続けて、適当なところできりをつけて帰ることにした。

鍵を受付に返して、スタジオの外に出る。

スタジオの前には車が停まっていて、その窓からプロデューサーが顔を出していた。

「お疲れ様です。送っていきますよ」

あれからずっとあたしを待っていたのだろうか。

ばかだなぁ、と思った。


26 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:13:14.67 ID:4TBLGcT+0




またしても駅までで大丈夫というあたしの主張は受け入れてもらえず、家まで送ってもらってしまう。

この人はあたしの話を聞く気があるのかどうか、もうそこから疑わしい。

「送ってくれて、ありがとな」

「いえいえ。では、また」

「あ、それとさ」

「?」

「敬語、次から禁止な!」

車のドアをばたんと閉めて、振り返ることなく家に駆け込んだ。


27 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:13:42.14 ID:4TBLGcT+0




ある休日、自主練習に励んでいたときのことだった。

急な体重移動を必要とするステップを練習していたところ、滑って大きく尻もちをついた。

気が付かない内に自分の汗が床に溜まって滑ることは珍しいことではないから、またやってしまった、くらいの気持ちだった。

しかし、原因はどうやら違うらしかった。

ぶつけたお尻をさすりながら自分のつま先を見やると、大きくぱっくりと口を開いていた。

初めてのダンスシューズだけにショックかなりだった。

大事に使ってきたつもりなのになぁ。

完全に、気分が沈み込んでしまった。

「はあ」とため息を吐いて、靴ひもをほどく。

ごろんと横になって、あらゆる角度からシューズを眺めると、各所にガタがきていることがわかった。

靴底はかなりすり減っているし、ところどころ破れかかっている。

「だめかぁ」

壁に背中を預け、少しの間放心した。


28 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:14:46.45 ID:4TBLGcT+0




あたしが我に返ったのは、ルームのドアが開く音でだった。

入ってきたのは、プロデューサーだった。

「あれ、どうしたの」

「あー、うん。ちょっとな」

目の前に転がる、あたしのダンスシューズを視線で示すと、プロデューサーは何も言わずにそれを手に取った。

「これ、昔使ってたとかじゃなく、新しく買ったやつだよね」

「ん? あー、そうだけど」

「努力の証だ」

「……そういう見方もある、か」

「落ち込んでるところ申し訳ないんだけど」

「んーん。大丈夫。何か用事か?」

「デビュー、決まったよ」

あたしの「ええっ!?」という声がルームに響いた。


29 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:15:18.99 ID:4TBLGcT+0



デビューまでと、それからの段取りを一つ一つ告げられる。

ライブ、CDの発売日、ストアイベント、他にもいろいろ。

シューズをだめにしてしまった悲しみと、デビューできる喜びとで心の中がごちゃごちゃになっていた。

「そんなわけで、ようやくスタートラインだ」

プロデューサーが締めくくるように言った、そんなセリフがすごく胸に残った。

これだけ毎日毎日努力を重ねて、まだスタートラインなんだ。

きっと、ここまで来た子たちはすごくたくさんいるんだろう。

そして、ここで夢破れる子たちがすごくたくさんいるんだろう。

まだあたしは勝負の舞台に立ってすらいなかったことを実感した。


30 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:15:45.21 ID:4TBLGcT+0




話をしている中で「デビューを祝してご飯でもどう?」という提案がプロデューサーからあった。

あたしは二つ返事で了承して、明日一緒にご飯に行くことになった。

レッスンスタジオで顔を合わせることは多かったけれど、思えばプロデューサーとプライベートで会うのは初めてになる。

そこそこ長い付き合いなのに、変な話だ。


31 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:16:16.95 ID:4TBLGcT+0




次の日、約束の時間の十分ほど前に窓から家の外を見やると、見慣れたプロデューサーの車が停まっていた。

きっと、あと五分もしたら着いたことを連絡してくるのだろうな、と思い、準備を済ませて玄関で待機した。

予想どおり、きっかり五分前にプロデューサーからの着信があたしのケータイに入る。

すぐに出るのは見計らっていたと思われてしまうかもしれない、と少し待ってダイヤルボタンを押した。

「もしもし?」

「あ、着いたよ。家の前」

「んー」

通話が終わり、ケータイを鞄にしまって家を出た。


32 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:17:11.48 ID:4TBLGcT+0




「……お待たせ」

「大丈夫。今来たとこ」

嘘ばっかり。

「それで、ご飯ってどこ行くんだ?」

「そんなに大したものじゃないけど、お祝いだからね。ちょっとしたレストランに」

「え、ドレスコードとか、そういうの。何も考えてなかったんだけど」

「あ、そこまでじゃないから大丈夫」

「よかった……」

「そうそう、ささやかだけど、これ。神谷さんに」

プロデューサーは後部座席に手を伸ばして、大きな包みを取る。

そのままあたしに差し出して「デビューのお祝い」と言った。

「……いつもスポドリもらったりしてるし、そんなのいいのに」

「頑張ってる神谷さんに、なんかできないかなぁ、と考えた結果です」

いつまでも遠慮していても話が進まないし「開けてもいい?」と聞いて、包みに手をかける。

出てきたのは、そこそこの大きさの長方形の箱だった。

「靴だ」

「そう、靴」

「……もしかして、ダンスシューズ?」

「開けてないのによくわかったね」

「でも、サイズとか……あ、衣装の採寸したときの?」

「正解」

「職権濫用じゃねーか」

「そこは目を瞑ってもらえれば」

「……その、ありがと。これからも頑張るよ」

「どういたしまして。神谷さんの頑張りは十分見てるから、信頼してる」

「うん。……でも、奈緒な」

「え?」

「神谷さん、っての他人行儀でなんつーかアレだし、奈緒って呼んでくれよ」

「じゃあ、奈緒」

「よし」

変なやり取りだった。


33 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:17:39.80 ID:4TBLGcT+0




「それから、もう一個。プロデューサーさんにはすごく感謝してる」

「それを言ったらこちらこそだよ」

「ここまで面倒見てくれて、何もかも素人のあたしをスタートラインに立たせてくれて、ありがとう」

「……だけど、アンタとか、プロデューサーとかじゃないんだね。プロデューサーさん、かぁ」

「なんだよ、もう。あたしが真面目にお礼言ってるのに……さん付けしたら変かよ」

「いや、可愛いと思います」

「だー、もう! そうやってからかう! 早くメシ行くぞ、メシ! バカ言ってないで車出せ!」


34 : ◆TOYOUsnVr.[saga] 2017/11/16 01:20:24.73 ID:4TBLGcT+0




ここまでの話が、あたしの一足目から二足目までの話。

あたしのダンスシューズの話だ。

現在のあたしの周りには、あたしがアイドルにならなかったら縁がなかったであろうものがたくさんある。

勉強机の端に積まれた付箋だらけの台本だとか、書き込みだらけの楽譜だとか、挙げ出すとキリがない。

でも、きっと一番はクローゼットにいるかつての相棒、ダンスシューズたち。

あの子たちのおかげで、今のあたしがあるわけで、あたしを語る上では一人として欠かせない。

それぞれに思い出があって、優劣なんかはないけれど、文字どおりその身を削って、アイドルのスタートラインにあたしを立たせてくれた一足目。

生まれて初めての、あのダンスシューズはいつまでも宝物だと思う。



おわり



元スレ:http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1510761248/
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